2014年1月24日金曜日

「いいわねぇ〜、東京の木は」

久しぶりのブログの更新。毎月3回の更新を目指していたが、この2ヶ月はバタバタで、心の余裕がなかった。気がついたら大寒も過ぎ、そろそろドブロク仕込まなきゃ、とあせってきたが、そんな心境の中、いつもは車通勤のところ、久しぶりに電車に乗って仕事場へ向かった。

上の写真は、今朝、その出勤途中に撮った公園のケヤキ。場所は、東京の福生(ふっさ)。高さは、30メートルぐらいありそうな大木だ。今は葉が落ちていて、その枝振りがよく分かる。

これ見て思い出したことがある。私が二十歳の頃、つきあっていたガールフレンドの言葉だ。「いいわねぇ〜、東京の木は」。彼女は、東京の大学へ通うために愛媛から東京へ出てきていた。私は東京生まれの東京育ちで、お互い大学生。その冬、私たちは東京の新宿御苑をデートしていた。二人は大木が何本も立ち並ぶ広場のベンチに座った。

「いいわねぇ〜、東京の木は」と彼女。

「なんで? 東京の木より田舎の木の方が自然じゃない?」と不思議がる私。

「こういう公園は東京みたいな大きな町だからあるのよ。田舎は、少し行けば森や林があるから、こういう公園は要らないの」

「それで何で東京の木はいいわけ?」

「だって、こんなにノビノビ大きくなってるじゃない。森の木は、必ずいろんな木と隣り合ってるから、いつもせめぎ合い。こんなに自分の好きなように枝を張って大きくなりはしないのよ。だから田舎の木は、こういう東京の木を羨ましく思ってると思うわよ」

「なるほど・・・・」

私は、東京の下町で生まれ育ち、当時もそこに住んでいた。そして、ずぅーっと、狭いところに人がたくさん住んでいて、常々窮屈だと思っていた。彼女の話を聞いて、都会の自分と田舎の木が同じような境遇のような気がして、不思議な気持ちになった記憶がある。

私の両親は二人とも、田舎で生まれ、東京に出てきた。でも今は「もう、とても田舎には住めない」と言う。一方、都会に生まれ育った私にとって、田舎暮らしは憧れだった。そして20代の頃、私は一日中車の音が聞こえないほどの田舎に暮らしもした。でも、それも馴染めず、結局は東京に住んでいる。東京と言っても、今度は都会ではなく西のはずれ、都会でもなく田舎でもないところだ。

冒頭の写真のような東京の公園の木の自由さ、そしてその不自然さと寂しさ。田舎の木の窮屈さ、そしてその自然さと賑わい。自由の中には常に窮屈さがあり、窮屈さの中にこそ自由さがある。このケヤキのように、公園でノビノビ枝を張っている大木を見ると、いつもそれを想う。

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