2011年2月23日水曜日

ベトナムとパチンコ屋の静寂

ベトナムに行くと、嫌いでなければ、必ずコーヒーを飲む機会がある。ベトナムはcafeだらけ。町にはエアコン完備で立派な店構えのものから、小さな椅子に腰掛けて飲む道ばたの屋台まであちこちにある。そして特に屋台などエアコンのないオープンなcafeでは、

「一人で腰掛け、道行く人を眺めながら、コーヒーをすする人」

をしばしば目にする。そんな人は、物思いにふけっているふうにも見え、独特の静寂感が漂っている。そしてそんな人は、何も静かな場所だけで目にするのではない。上の写真のようにオートバイの大波が打ち寄せる道路に面したサイゴンの中心部のcafeでさえも見かける。どうにもならないような喧噪の中で、そんな人を見かけると、私はホッとし、「ベトナムだなぁ」と感じる。

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「静寂」って、何デシベルとか何ホンの問題ではなく、「静けさ」を感じるかどうか。つまり感覚の問題だ。

私は30年ほど前、パチンコ屋の店員をしていたことがある。もちろん店内はものすごい騒音。広い店内には私を含め数人の従業員がいて、その騒音の中、お互いにコミュニケーションを取りながら働いている。

「38番台が打ち止めになりそうだ」
「103番台の玉が引っかかっている」
「あの(常連)客は面倒だから俺が行く」
「今、手が放せない。ドル箱(玉を入れる大きな箱)を持ってきてくれ」
などなど。

声が届かないぐらい遠くにいる従業員とも、身振り手振りでコミュニケーションを取る。番号は市場の競りのように指で示すが、不思議なことに、何ヶ月かすると、遠くで声が聞こえなくても仲間の従業員が何と言っているのかが分かるようになる。

店が忙しくなると(客が多くなると)、騒音は更に増すが、店員の集中力も増す。すると、その口の動きを見て、その声を感じ、細かなことまでも聞き取れるようになるのだ。「読唇」ということなのかも知れないが、その人の声をまるで近くで聞くのと同じように感じ、何を言っているのかが分かる。そして、そうしたときは、決まってパチンコの騒音は聞こえず、その人の声だけが聞こえるように感じる。それはまるで「静寂」の中で聞いているがごとくなのだ。忙しいときは、そんなことあまり意識しないが、落ち着いて後から考えてみると、「あの騒音の中で、あの距離で、何であの人の声がちゃんと聞こえたんだろう?」と不思議に思ったものだ。

“sound of silence”という名曲が昔あったが、こういうことかも知れないと思った。

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初めてベトナムを訪れる人は、サイゴンのオートバイの喧噪に度肝を抜かれ、圧倒されることが多い。エンジン音もあるが、クラクションをやたらと鳴らすからだ。目を奪われそうなアオザイ姿の美女に「ブッブー」と思いっきりクラクションを鳴らされたりすると、「えー」と思うかも知れない。しかし、そのクラクションも、日本とは違う意味がある。

私が初めてベトナムでオートバイを運転したときのこと。当時、やたらと鳴らすクラクションに嫌気が差していた私は、「自分はクラクション鳴らさないで走ったるぞー」と心に決めて発車した。そして追い越しをかけたときも、クラクションを鳴らさなかったら、後ろに乗ってた人から、「危ないじゃないかー、追い越すときはクラクション鳴らさないとダメだよ」と厳しく注意された。追い越しだけでなく、発車して合流しようとするオートバイや道を渡る人が前方にいるときなども同様だ。

ベトナムでは、オートバイや車で道を走っていて、例えば追い越しをかけるとき、「私は、あなたの横を通って追い越しますよー。だから車線変更しないでくださいねー」という意味で、クラクションを鳴らして自分の存在を知らせるのが親切なマナーなのだ。

「どんな(異文化・異感覚の)人でも分かる行為をして、安全を守る」。
島国育ちの私は、こーゆーのが大陸的習慣なんだと思った。

確かにベトナム、特にサイゴンのオートバイはうるさいが、そこで暮らす人々がうるさい訳じゃない。ベトナム人の話し声のボリュームは、概して小さい。

「静寂」はきっと世界のどこにでもあるものだと思う。

2011年2月14日月曜日

サンマの価格


「この時期になんでサンマ(秋刀魚)???」と思われることでしょう。でも、旬とか関係なしに、言っておきたいことがある。

最近、去年の新聞の切り抜きをペラペラと見ていたら、サンマの記事が目に留まった。

憶えてますか?
去年の夏、サンマが不漁で、「今年はサンマが高いぞ〜」とマスコミが騒いでいたこと。私はサンマが好物なので、とても気になった。上の写真は、東京新聞(11年8月4日付け朝刊)の記事だ。その最後には「入荷が極めて少なく、価格も一匹400円前後と昨年の倍」というスーパーの担当者のコメントが引用されている。(クリックすると拡大できます)

これ読んで、サンマを七輪で焼いて食べるのが大好きな私は、「いつもは5〜6回は焼くけど、今年はそんなに出来そうにないな」と思いながら、切り抜いたことを憶えている。

でも、その後、徐々に店頭にサンマが並び始めると、本当の最初こそやや高かったものの、9月に入ると150円だった。8月のサンマは毎年やや割高なので、例年と全く変わりない。

「あれっ、別に高くなってないじゃん」と拍子抜けな感じ。

そして、左のこの記事。先の記事のちょうど1ヶ月後。これも東京新聞で9月4日付け朝刊(クリックして拡大)。私は東京在住。「サンマ 東京なら100円台の怪」の見出し。「1億円の赤字が出たらしい」「赤字を誰が負担したのかは霧の中」とある。また、「量販店から頼まれると卸も仲卸も産地の業者もサンマ以外にも取引があるから断れない」ともある。

これらの限られた情報だけど、整理すると、実際問題、サンマは不漁だった。でも東京の量販店などに、例えば「去年と同じ卸値で」と頼まれると流通業者や漁業関係者は断れず、去年と変わらない卸値になり、店頭では100円台。その分の赤字はサンマ以外の海産物の利益から穴埋めされている・・・・ということだと思う。

それにしても、1匹150円なら、特別に感じないし、例年並みに売れたと思う。不漁の中、その数は足りたのだろうか? という疑問も湧いてきた。

この2つ目の記事の冒頭に、スーパーで生サンマを2匹買った女性のコメントがある。「今年は高いと聞いていたけど、そう高くないな、と思って」とある。

私は、「それって本当に大丈夫なの?」と言いたくなってしまう。

まず、不漁ということは、自然界ではあり得ること。だから、その際、値が上がるのは極々自然なことだと思う。ただ私を含め、誰だって高いより安い方がいい。目の前のサンマは、400円より150円の方がいいに決まってる。

しかし、ですよ。

こういうことって、どこかで必ずシワ寄せが来る・・・・ということも決まってることなんじゃないだろうか。それが「霧の中」だとすると、そのシワがどこに寄っているかも分からない。そういうのって、私は嫌だなー。

1匹400円したって、サンマの他にもおいしい魚はあるし、そういうときはそれなりの食生活をすればいい話のように思う。目の前に甘い条件があると、その理由なんかはどーでもよくなって、その条件を躊躇なく受けるのは人間の性のようにも思うけど、そのツケがどっかにまわり、いずれは自分自身に跳ね返ってくるもののように思える。そして、そのツケが何なのかも分からないのだから、自分に跳ね返ってきても自覚症状も持てない。それはとっても不健康な経済システムのような気がしてならないのだ。

昔から「タダより高いものはない」って言いますね。
サンマは「タダ」じゃなくとも、同じような意味を感じてしまう私って、異常だろうか?