2010年12月27日月曜日

我が褌(ふんどし)ライフ【締め方編】

ふんどしシリーズ、第三弾。
きょうが最後の「締め方」です。
繰り返しになりますが、日本の伝統的な「越中」や「六尺」ではなく、私流ですので、悪しからず。ふんどし自体の仕様などは、前回のエントリ、我が褌(ふんどし)ライフ【ウンチク基本編】をご覧ください。

大ざっぱには、紐を腰にまわして結びつけ、その紐にふんどし本体を通し、前面から背面へ股を通って背面に持って行き、背面の紐にくくりつけます。

では、詳しいの、始めます。

1.袋状になった本体に紐を通します。紐を持って本体を垂らした状態で、縫い付けてある箇所が一番下になるように、つまりちょうど半分のところが紐に接するように本体をずらします。(ちなみに、最初に破けるのは、このヒモに接する部分になります)


2.垂れた本体が自分の前面になるように紐を持ち、紐を腰に廻して蝶結びに結ぶのですが、結び目は、前面のやや右寄りがいいので、そうなるように紐をずらして、紐を結びます(右利きの人の場合)。これで、本体は前面中央に垂れた状態で、もう両手を放しても大丈夫になります。ここでの一番のポイントは、紐を結ぶ位置(高低)と(張りの)強さ。私の場合、位置は腰骨の少し上。また強さは・・・・、ん〜説明が難しいので、最初は強めにしたり弱めにしたりしてみてください。

その位置が高ければ高いほど、また強く締めれば強く締めるほど(紐をピンと張れば張るほど)、本体がより長くなくてはならなくなります。このふんどしのよさは、それを自由に(好きに)出来ることなんですが、逆に適度の説明が難しい。個人差もあるし。

【1〜2のバリエーション:本体が袋状でない場合】
先に紐を腰にまわして結んでから、本体を前面の紐に通します。ちょうど半分のところが前面の紐にかかるようにします。この後は、袋状のものと共通です。

3.次に、本体を前面から背面に股をくぐらせ、背面へ本体を持っていきます。下の写真はそれを背面から見た状態です。アースなボールが右側のお尻、穴の開いたボールが左側のお尻です。


4.次に、背面で本体を紐にくくりつけるのですが、本体を強く引っ張れば強く締まるし、弱く引けば弱く締まるので、その調整はお好みで。そして私のくくりつけ方は、下の写真のように、最初に縫い付けてる端の部分を紐の上から通して右側にいったん出し(写真A)、


出したところを本体の上をクロスさせながら左側へ持って行き(写真B)、


最後に、その持っていった先を本体左側の紐に下からキュッと通します(写真C)。


実際には、写真とは違い、本体はやや引っ張られるので、これで安定します。この際、縫い付けてある部分がちょっとボリュームがあるため、縫い付けがないものと比べ、紐に引っかかる感じになり、より安定します。

また、前回のエントリで、サムライ菊の助さんから、「130cm(2つ折りにして65cm)は短くないか?」とのご質問を頂きました。

とても鋭いご質問です。130(65)cmで大丈夫なのは、この「引っかかり」があるためです。ですから、逆に縫い付けしてない(袋状になってない)ふんどし本体の場合は、あと20cm(2つ折りにして10cm)ぐらい長くした方がいいと思います。

私は長い間、縫い付けしてない本体を使っていましたが、それでもすぐにほどける程ではありません。

以上です。
説明するほどのことではありませんが、脱ぐときは、ただ蝶結びの結び目を引っ張ってほどくだけです。

くくりつけるところの説明が、ややこしく感じるかも知れませんね。背面で結ぶため、見えないのでやや詳しく書きましたが、2〜3回やればほんの2〜3秒で出来ることなので、簡単だということは断言しておきます。

このふんどしのスタイルは、自分では、「越中」よりも締め具合の調整が利き、「六尺」よりも着脱が簡単な点がいいと思っています。作るのも布オムツを材料にすれば、ハサミで1回切るだけですし。

ひとつ短所も書きましょう。それは、寒いこと。もちろん冬場の話ですが、パンツに比べ、覆う絶対面積が狭いのでその分は確実に寒くなります。スースー。まっ、私の場合、寒くなるとパッチを履くんで寒くはないんですが。

またあまり人に見せるものじゃありませんが、銭湯に行ったときなど、たまに人の視線が気になることがあります。また若い人なんかは、男性でも女性でも、新しい恋人とネンゴロになって、「えっ、ふんどしなの?」と嫌われたら困る・・・・なんて心配する人は止めといた方が無難でしょう。私から言わせりゃぁ、「そんなんで嫌われるような相手とは付き合わない方がいいよ」ってことですが、こればっかりはね・・・・。

最後に、市販されているふんどしを紹介します。最近は、伝統的なものだけでなく、いろいろあります。私は自作ものを使っているので、正直、これらを使ったことはありません。だから、コメントは想像です。

コチラはオーガニックコットン製のふんどし。私は普段このメーカーのオーガニックコットンのタオルや枕カバーを愛用してます。この越中タイプのふんどしは女性用となってます。何つったってオーガニックコットン。肌合いはいいでしょう。また露出面積が狭め(覆う面積が広め)なのでそんなに寒くないかも。

メイド・イン・アースのふんどし

そしてこちらは、麻のふんどし。ヒーリング&スピリチュアルな感じです。

AYA 工房

そして、試しにamazonで「ふんどし」と検索してみたら、いっぱいあって驚いたぁ〜。(エッチなDVDなんかも引っかかってきます。その手のグッズでもあるんですね)

話し出すといろいろありますが、私が20年以上、このふんどしを使い続けている一番大きな理由は、その履き心地(締め心地)。それに尽きます。それはパンツにはないものなんです。

これでふんどし特集を終わりにしますが、ご質問などありましたら、ご連絡ください。
では、Let's enjoy your FUNDOSHI life!

2010年12月22日水曜日

我が褌(ふんどし)ライフ【ウンチク基本編】

前回のエントリに続き、ふんどしです。
ふんどしですが、「越中」でも「六尺」でもありません。前回のエントリのキッカケでスタートした後、ただただ、20年間、私なりに改良し続けた現時点のレポートみたいなものです。ご興味をお持ちになる酔狂な方は、生地やサイズなど、ご自分でアレンジして作ってみてください。

まずは、まずはその基本的なスペック(仕様)から。

●長さ130cm X 幅30cmの布(ふんどし本体)
●長さ140cmの紐


つまり、布と紐。この2つがあればいい。
ふんどし本体の長さ130cmは2つ折りにして使います。上の写真は私の現物ですが、2つ折りになった状態で、見た目は長さ65cmになってます。また、端と端が縫い付けてあり、袋状になっていますが、それはちょっと特殊です。その箇所は以下の写真。生地の感じも分かりますね。


ご参考まで、私の身長は180cm。ズボンはだいたいウエスト79cmを買います。そんな人間がちょうどいいのがこのサイズということになります。

次に締め方を大ざっぱに説明しましょう。
「紐にふんどし本体を通し、紐は腰で廻して結ぶ。本体を前面から股を通して背面に持って行き、背面の紐にくくりつけます」
締め方の詳細は、改めて書くので、まずはザックリとイメージしてください。

たった2つのパーツだけど、私の中では、ここに至るまでに紆余曲折がありました。ということで、締め方の前に、大事な素材選びや上記の仕様になった理由などを書き連ねたいと思います。

【1】ふんどし本体の生地について

強さと弱さ(柔らかさ)のバランスがポイントです。強い布は耐久性に優れるが、ゴワゴワもする。弱いと耐久性に劣るが、肌にやさしい。お好みになりますが、四六時中大事なところに着けているものなので、その感触はとても重要なポイントだと思っています。例えば、現在市販されているふんどしの生地も様々なものがあります。ガーゼから普通のコットン、オーガニックコットンや、麻のもあります。

ちなみに、現在の私の一番のお気に入りは、市販の布オムツ。上の写真がそうなんですが、それはその市販のオムツをただ2つに切っただけのものなのです。2つに切る前は、下の写真。赤ちゃん用品のお店で、いっぱい入っててとっても安く売ってます。


何せ赤ちゃん用ですから、やさしい肌触りは折り紙つき。普通に織られたコットンより弱いけど、ガーゼよりは強いです。私の曖昧な記憶では、3枚ぐらいの使い回しで1年は問題ありません。綾織りって言ったっけかな。若干の伸縮性があり、それもちょうどよく感じてます。そして私がこの布オムツを気に入ってるもう一つの理由は、袋状に縫い付けてあること。元々の1枚の布の端と端を縫い付けて袋状になっています。この点は後で書く「締め方」のところで触れますが、締める際、この縫い付けてあるところが、締めやすさに繋がっています。

【2】縫製について

ふんどし本体は基本的に1枚の布ですから、通常、縁かがりをしますね。ただの直線縫いなのでミシンが便利ですが、もちろんヒマに任せてたまには手縫いもいいものです。しかーし、以前はミシンを出して縁かがりをしていた私ですが、最近はしません。

例えば、私が使う布オムツの場合、元々の縁は、ほつれないように加工されています。でも、真ん中をハサミで切るので、その辺はほつれます。で、実際はと言うと、使い始めは若干ほつれますが、しばらく使っているうちにほつれなくなるんです。それに気がついてからは、縁かがりをしないようになりました。これは生地によります。ほつれやすい生地とそうでない生地があるので、その点も、この布オムツはスグレモノと感じています。

【3】本体のサイズ

長すぎると邪魔になりますが、ある程度の長さがあった方が、締めやすい。緩フン(緩く締めるの)が好きな方は、長めに。私の場合、その市販の布オムツの長さが、私の体型にピッタリの長さなので、一度縦に真ん中をハサミで切っただけで、もうそれがそのまま私のふんどしのサイズになっています。だから作るのも超カンタン。

【4】紐について

太さが重要です。紐は結んで使うので、太すぎると、結び目がでかくなって邪魔です。反対に細すぎると、肌に食い込み嫌なものです。丈夫さと適度な太さそしてやっぱり素材感もありましょう。長さについては、最初は長めが無難ですが、使っているうちにだいたい伸びます。伸びたところで適度な長さに切り直してもいいでしょう。


上の写真のとおり、私の場合、手芸屋さんで売ってる組紐を使っています(綿100%)。いろいろ使いましたが、この手の組紐は、太さや色も何種類かあるので好みのを選べるのが嬉しいです。

「ウンチク基本編」はこのぐらいにします。長々とお付き合いありがとうございました。この次は、「締め方編」をと思います。

2010年12月17日金曜日

我が褌(ふんどし)ライフ【キッカケ編】


「いや〜、パンツがボロくなっちゃってね〜。この島じゃどんなパンツ売ってんだろー」

「そんなの買うことないよ。ふんどし自分で作ればいいんだから」

古い話だが、1988年の11月、私はタイ南部にあるパンガン島という島に滞在していた。パンツがボロくなったのは私のことで、それをたまたまそばにいた日本人につぶやいた。思えば、これが私の20年以上にわたるふんどしライフのキッカケだった。この頃、私は日本を含めたアジアを何年か旅行していたので、その途中でのことでもある。

「ふんどしを作れば・・・・」と言う彼に、早速、作り方をきいたら、彼は私の腰布(1.2×2mぐらい)の端を20cmぐらいの幅でをビリビリっと破き、さらにその後、3cmぐらいの幅でビリビリっと破いた。ずいぶん乱暴な人だな〜と思っていたら・・・・。

幅20cmぐらい長さ1.2mの布はふんどし本体に、そして幅3cm長さ1.2mの布は引っ張りながら細長くよって紐になった。最初に紐を腰に巻いて結ぶ。次にふんどし本体をその紐に通す。本体のちょうど半分のところで折り返すのだが、それを前面(ヘソの下あたり)の紐でする。そして2つ折りでぶらりと垂れ下がった本体を、股の下を通して、背面(お尻の上あたり)の紐のところでクルクルっと結んで出来上がり。

あっという間の出来事だった。
また1枚じゃなんだからと本体を2〜3枚作った。紐は1本で共通。
これで私のパンツライフはアッサリと終わった。

そのときは、海辺のバンガローを借りてたので、気が向けばちょくちょく海で泳いだ。泳いだ後、ふんどしを替える。海で濡れたふんどしは、真水でチョチョっと洗って干しておくと、30分もしないうちに乾いた。「こりゃ〜便利ぃ〜」

そのタイの腰布は、ふんどしにはやや生地がしっかりし過ぎていたので、その後インドへ行ったとき、もっと柔らかい布を買って、10枚ほど手縫いで縁かがりをし、バージョンアップした。基本的にはペラペラの1枚の布だからすぐ乾く。日本の気候でもね。そして、何しろパンツより、な〜んか落ち着くんです〜。それ以来、気に入ってしまって止められなくなり、今ではもう手放せなくなってしまいました。また、ギュッと締めたり、緩く締めたりと、その日の気分で締め具合の調整も効きます。

でまぁ、20年も使っているとその間、何度か新たに作る機会が訪れます。そーなると、「ここはもっとこーの方がいいなー」とか、「やっぱこれはこうでなくっちゃー」などとその都度研究するもの。あれやこれややってみて、今は「だいたい、これでいいっかなー」というものに決まってきています。

前置きが長くなったけど、それを紹介したいと思いまーす。ま、次のエントリで、ということになりますが。

日本には、「越中」、「六尺」などなど古典的なふんどしがもちろんあります。そして、それらはそれなりに、ディープな世界があるでしょう。でも、私の場合は、現在もなお、先述のキッカケの延長線上にあり、それで満足しきっているので、その世界を書こうと思っています。

では、次回。

2010年11月26日金曜日

丁寧に少しずつのイタリア

まーず、イタリアは古い建物が多い。国を挙げて古い建物を残している。添乗員の方の話だと、古い建物を残すのは、代わりに新しい建物を建てるのと比べ、およそ3倍の費用がかかるとのこと。

ただ、そうした町でも、もちろん全てが古い訳じゃ〜ない。上の写真は、バジリカータ州にあるカステルメッザーノという町のバール(Bar)の店内。バールとは、カフェ兼タバコ屋さんのような店。プラスチック樹脂のグリーンのレジがかわいかった。こんなキラキラした店内だけど、建物自体は数百年前のものだ。

そして、この店を一歩出ると、右の写真のような町並み。分かるかな〜、どの家の屋根にも煙突があるの。軒下には、樫や楢みたいないい薪がたっぷり積んであった。これからの季節、ここは雪景色になる。

2つ前のエントリ、「南イタリアのゴミ箱と中空都市」で、イタリアの古い町はみんな山や丘の上にあることを書いた。このカステルメッザーノも山の上。だから、伏流水が集まるような水源はない。しかし、右下の写真のように昔っから使われている雰囲気の水場がある。

何年か前のこと。NHKのテレビ番組で、イタリアの古い町の水道設備のことが取材されていた。それはイタリア中部の古い町だった気がするが、その山の上の町に水を引くため、数十キロだか何百キロも離れた、その町より少し標高が高いところにある山の水源から延々と地下に石造りの水路を作って、山の上の町に水を引いていた。「南イタリアのゴミ箱と中空都市」でも書いたが、山の上に町を作る理由は、防御とペストなどからの感染予防という。そのためとは言え、山の上に町を作りたがったのは、「執念」以外の何ものでもない。このカステルメッザーノの水道がどういうシステムになっているかは不明だけど、今でも使われているそうした古い水場がイタリアには少なくない。

もちろんイタリアの建物はみな石造りだから耐用年数が長い。それにしても、薪の生活なども含め、このカステルメッザーノでは古い慣習を残しながら、新しいものを少しずつ加えていってる雰囲気がある。そしてその少しずつさは、小ぎれいに商品が陳列されたバールのように、「丁寧さ」を伴っているように映る。そこには決して無闇に新しいものに変えない、凝縮された時間さえ感じる。


そして、上の写真。何の変哲もない扉のドアノブ。これは、トリヴィーニョのアグリツーリズモ、La Foresteria di San Leoのもの。全館古ーい石造りの中、ちゃんと周りの雰囲気に馴染んでいて、カッコいい。こういう場合、得てして、石造りと同系の色や材質を使いそうだが、機能的にしてかつきれいな赤色が使われている。この材質・色を「浮いている」とは感じず、「潔く」感じるのは、それが丁寧にデザインされたものだからだと思う。

イタリアの景気は決してよくないと言われる。そんな中、こうして少しずつ変えていくことは、雇用の創出やGDPをグッと引き上げることにはならないだろう。でも、逆に昔からの生活を「少しずつ」しか変えないことは、急に不景気のどん底にも陥らないような気がする。そしてそれを知っていてそうしているようにも感じる。

こういうことを、例えばエネルギーにあふれた若い人なんかはどう思っているのだろう。とか、新しいものより3倍かかる古い建物を残す費用は、修繕の技術を高めるだろうがそれは社会的な雇用に繋がるものなのだろうか。とか、新興住宅地に住む人たちはどう思っているのだろう。いろいろ考えてしまう。

日本は最近、「ダウンサイズな暮らし」がしばしば提唱される。私も同感だ。しかし、イタリアの田舎では、暮らしのサイズを少しずつしか変えないことで、大事なものを守っているように思える。

景気が悪い日本では、「消費を増やさないといけない」と盛んに言われる。それは「丁寧に」「少しずつ」ということとは反駁しているようにも思える。長く使えるものを、「丁寧に」「少しずつ」消費していくことは暮らしを悪くするのだろうか? 昔から「モノは大事に使いなさい」と教わってきたことは今の世の中に合わないことなのだろうか? もちろんそんなことはないはずだ。今の日本こそ、大事なものの転換期なような気がしてならない。

最後に、お許しを得て撮らせてもらった、カステルメッザーノのおばあちゃんの写真で、今回のイタリア旅行編をおしまいにします。


2010年11月25日木曜日

南イタリア、田舎の車事情

1983年の夏、私はユーレイルパスを使って2ヶ月、ヨーロッパを旅した。そのときビックリしたのは、どの大きな町にもペコペコの古い車が頑張って、それもたくさん走っていたこと。「いや〜、物持ちいいな〜」とも思ったし、何よりその風景がカッコよかった。古い話とは言え、その延長線上に今があると思うと、南イタリアの田舎なんぞに行ったらまだまだフィアットの古いのがいっぱい走ってるんだろうなー、と楽しみにしていた。

ということで、先のエントリ「ゴミ箱」に続き、今回は車です。

・・・・なんですが、その前に、ちょっとだけ椅子。写真は、日本からの直行便で着いたローマの空港の、国内線の搭乗口の椅子。この搭乗口でダラダラ待つ時間がいつも退屈ですね。そのとき撮ったもの。何と革張りなんです。もちろん、この椅子ひとつではなく、みんなです。設置して何年経ってるかは不明だけど、当然のことながら、一番こすれる箇所がすり切れてます。こんなこと設置する前から分かっちゃいるだろうに。でも、これが革製品を誇る国の意地なのか。ただただ革製品の寿命の感覚が違うだけなのか。私はイタリアの靴が好きなんだけど、長持ちしないのがやや気になっている。そのイメージが重なった。今どきの日本だったら「税金の無駄遣い」とやり玉に挙げられそうだ。でも長距離フライトで疲れた身体に、この座り心地はよかったぜ。


話の寄り道ついでに公衆電話。これは10年以上前からあると思う。この曲線が何となく、ルイジ・コラーニ風。コラーニはイタリア人じゃなかったかな。

さてさて余談はこのぐらいにして、今回、成田からローマに着いてすぐ、国内便で南部の町バーリへ飛んだ。夜11時頃、ヘトヘトで着いたホテルのロビーの真ん中に、1970年頃のベスパが展示してあった。たしかに塗装もピカピカで状態がよく展示するに値するものだったんだろうが、写真を撮る気にならない。

それ見て「あれ、やばいなー」と思った。「こいつはもう町では走ってないんだ」という、不安な気持ちの方が大きかったから。イヤな予感を引きずりながら、翌日から町を歩き出すと、案の定、古い車が全然走ってなーい。日本でもよく見る新しいフィアットやアルファロメオ、スマートなんかがいっぱい走ってる。「あれ〜、おかしいな〜」と完全に肩透かし。

ある知人の話だと、ヨーロッパはユーロ導入の頃、各国は古い車を一掃整理したという。日本で言えば、排ガス規制やエコカー減税といったところだろうか。

まぁ、それでも何とか少しは見つけたので、ルノーを含め載せます。ただ、これらの古い車は、以前のように普通に走っているのではなく、マニアの車といった感じです。古いといっても、それほど古くもないけど。



しかーし、今回新しい発見もあった。それはこのオート三輪(Monopoliという町の市場で)。新車っぽいのも走ってた。ベスパのメーカー、Piaggioが作ってるAPEというやつらしい。こいつはいっぱい走ってて嬉しくなった。イタリアの旧市街は石畳で狭く曲がりくねった道が多い。おそらく、この道を作った頃は馬車(またはロバ車)が闊歩してたんでしょうね。だからそれとちょうど同じような幅のこいつはどこの旧市街でも大活躍。もちろん小回りも効くしで、必需品の様子を呈していた。

もひとつ別のオート三輪の写真も載せちゃいましょう(オストゥーニ旧市街にて)。もーこんな道で走ってるんですから、いくらフィアットが小さい車たくさん作ってたって、こいつじゃないとダメな道がたくさんあるんです。タイのトゥクトゥク、インドのオートリクシャーなど、アジアではオート三輪は主にタクシーだけど、このイタリアのAPEは運搬車。今回乗ることは出来なかったけど、こういう車が走ってる町の風景は実にいい。無理して残しているんじゃないんです。必要だからあるのです。そこがいいでしょ。

イタリアは国を挙げて、旧市街を残してます。ということは、こいつはずぅーと必需品で、町の風景の脇役を担ってくれるようにも思えます。最後に、バジリカータ州カステルメッザーノでの写真。信号機がありますね。その道、オート三輪でさえすれ違えず、見通しが悪いからです。頑張れ、オート三輪!

2010年11月24日水曜日

南イタリアのゴミ箱と中空都市

前のエントリまでで、今回の南イタリア・ツアー旅行の本題だった「食」について主に書いてきた。で、こっからは「食」以外で、私個人的に気になったことを書いてみたい。

ということで、まずはゴミ箱。

私の幼少時代(1960年代)、日本の町のあちこちにゴミ箱があった。たしかモスグリーン色してたようなおぼろげな記憶があるが、最近はめっきり見かけなくなった。現在、公園のゴミ箱はほとんど撤去され、残されているのはコンビニの軒先ぐらいか。

でも、今回行った南イタリアには町のあちこちにゴミ箱があった。最初は懐かしさも手伝って写真を撮ったが、場所を移動していくと、いろいろなタイプがあることに気がついた。そう思ってからは気になって仕方なくなって、新しい町に着くとゴミ箱を探した。ご覧のとおり、どのゴミ箱もおおまかなサイズ・形は一緒だが、素材やデザインがそれぞれ違う。
もっと他のもあったんだけど、何せ今回はグループのツアー旅行だ。バスの車窓を眺めてて、「あー、あのゴミ箱ぉ!」とバスを停めることはできない。そんな状況の下、一週間足らずの間にこれだけあったのだから、イタリア全土では相当の数あることが想像できる。

さて、お気づきと思うが、全て宙に浮いている。昔、日本にあったのもそうでした。宙に浮いてる分だけ、場所を取る割には容量が小さいんだけど、その浮いたところがそれなりの「清潔感」を醸し出しているような気がしてならない。

そこで私が連想するのは、イタリアの古い町だ。イタリアは昔、都市国家だったから、防御も基本的には自分たちの町で行った。そのため、イタリアの古い町はほとんど山や丘の上に作られている。石造りだから石を運ぶ手間、また水のことを考えると決して簡単なことではない。日本風に言えば、山城タイプか。日本では京都など防御のためわざわざ盆地に作られた町も多いが、イタリアの古い町は逆の発想で、山や丘の上、中空に作られている。今回訪れた有名どころの町ではオストゥーニも丘の上。そして右の写真は、トリヴィーニョのアグリツーリズモ、La Foresteria di San Leoから見えた山の上の町。手前は畑で、遠くの山の上に町があるのが分かるかな? そこには行ってないけど、調べてみると、カンポマッジョーレ(Campomaggiore)という町。おそらく数百人ぐらいの町だ。大小に関わらず、こういうのがイタリア全土に点在する。

それで、です。この山の上に町を作る慣習は防御のためだけではないらしいのだ。ペストが流行した際、感染を恐れたこともその理由にあるとのこと。当時は、医学的な原因は分かってなかっただろうから、「感覚的に」山の上に住んだ方が感染しないだろうと考えたんだと思う。山の上だと孤立している感があり、何となく分かる気がする。蟻返しのついたテーブルのようと言ったらいいのかな。

話をゴミ箱に戻そう。

宙に浮いてるゴミ箱と山の上に作られた町。この両者、私には長らくここに暮らす人たちの共通した「清潔感」によるもののように感じるのだ。オリーブがよく育つ湿度の低い気候の下で、風が流れ、ゴミ箱と町が清潔に保たれている。今回唯一歩いた大きな町はナポリだけだったが、そこ以外で訪れた町、村は、どこもとてもこざっぱりしていて、とても清潔に感じた。

2010年11月22日月曜日

南イタリアの美味

今回の旅行で、おいしかったものは数あれど、その中から珍しく感じたものをいくつか紹介します。逐一「おいしい」という言葉は特に使いません。

右の写真は、プーリア州の海辺の町、Polignano a Mareのレストラン、L'Osteria de Chichibioにて。この二枚貝、生です。小さな牡蠣ものってるけど、まー新鮮そのもの。朝獲れたものをランチで頂く。これが前菜のトップバッターで、このあと生イカや茹でタコまで出てきた。イカは小ぶりの丸いものだが、生のワタが特にうまし。どれも添えてあったでっかいレモンをたっぷり絞って食べる。生の二枚貝やタコなんてのも食うんだー、なんて思った。また、この次のレストランでもそうだけど、プーリア州のこのへんは、前菜に小皿料理がズラズラとサーブされるのが特徴とのこと。

右の写真は、オストゥーニのレストラン、Osteria Del Tempo Perso(「忘れ去られた時間」という意味の名前らしい)にて。モッツァレラなんだけど巾着になっていて、ナイフで切ると中に閉じ込められたミルクがタラーリと出てくる。「モッツァレラ」とは別の名前だったけど忘れた。鮮度抜群で最上級のうまさ。この後、ポルチーニがゴロゴロ入ってるパスタも食べたが、このミルク入りモッツァレラの方が記憶に残っている。ちりばめられた赤いのは、ザクロ。

さてお次は、トリヴィーニョ村郊外のアグリツーリズモ、La Foresteria di San Leoで。これはキッチンにあった、ペッペローニと呼ばれる、ピーマンの一種を乾物にしたもの。大きさ形は、万願寺とうがらしのようにやや細く長いが、全く辛くない。生では食べてないけど、この乾いたのは旨みが強い。このバジリカータ州ではこれがよく使われるらしい。で、どー使われているかというと、この次の写真。

オリーブオイルが入った小さめのフライパンを弱火で熱し、ドライのペッペローニを入れる。低温で3分ほど熱し、ペッペローニの旨みをオイルに抽出する。そのオイルを使ってパスタを料理する。揚がってパリパリになったペッペローニは右の写真のように、パスタの上にのせたりして、パリパリ食べるんだけど、これがまたオツ。

最後は、ナポリのピザ。店の名はCiroとかだったと思う。何しろナポリでも由緒あるピザのレストラン。ナポリピザ協会認定の第一号店という、添乗員の方の説明があった。トッピングもよかったが、私個人的には生地の方が記憶に残っている。最近は日本にも、「ナポリピザ」が看板の店が増えたが、そういう店では、生地がやたらと薄く、縁だけ厚くなっているのが多い。でも、ここのは、写真にもあるとおり、やや縁が厚いぐらいでやたらと薄い部分はない。また、写真のではないけど、トッピングの生のルッコラは白い花のものではなく、味の濃い黄色い花のルッコラが使われていた。

このピザの店、雰囲気もよかったので最後に店内の様子。
ごちそーさまでした。

2010年11月19日金曜日

子供の時差

今回、3歳と6歳の子供を連れてイタリアなんぞに行ってきたのですが、子供がいると町ですれ違う人も笑顔になったりでいいですねぇ〜。でも思いもかけなかったことがありました。それは、子供って時差があんまり関係ないこと。

夏時間でないイタリアと日本の時差は8時間。つまり、日本からイタリアに着いて、時間が8時間遅くなる。だから、最初は夕方になると眠くなる。1〜2日で私は慣れてくるんだけど、子供は午後2〜3時頃になると寝てしまう。眠くなると、(ところかまわず)寝ます。今回は、グループのツアー旅行だから、午後2〜3時に必ずベッドのあるところにいるとは限らない。そーなると、例えばバスの中で子供だけ寝かせてる訳にはいかないから、オンブなり抱っこなりで連れて行く訳です。ご存じですね。寝入った子供の重いこと。写真は、夕方ホテルに着いて、「ヨッコラショ」とベッドに降ろしたところです。午後は毎日これの繰り返しです。

この旅行はあくまで親が行きたくて来ているのだから、そりゃあこのぐらいしなきゃあなりません。まぁ、元気に過ごしてくれたことが何よりでしたが。今回、グループツアーでよかったのは、「ここは私がおぶるわ」と背負ってくれた方がいらっしゃったこと。感謝に堪えません。

それでー、午後2〜3時に寝入りますね。で、寝た子は当然起きる訳です。その起きる時間はというと、深夜3時とかなんですねー、これが。それで起きると、これも当然ながら腹が減ってる。真夜中なので、カミさんは日本から持参したレトルトのお粥とか食べさせてました。大変です。私はというと、寝てました。子供たちは、だいたいエンタテイメント系(遊ぶ)は私父親で、食べたり寝たりの基本事は母親に頼る傾向があるんです。だから順序としてカミさんが先になります。

こういう繰り返しが何日か続いたので、よくよく考えてみたんですが、それは日本時間なんです。時差8時間だから、つまりは日本の夜10〜11時に寝て、朝10〜11時に起きてる。だいたい2人の子供は、日本にいるとき、9〜10時に寝るんだけど、ちょっと頑張って10〜11時に寝るってこと。そして不慣れな環境でやや疲れ気味、それを全く起こさずに寝かしておくと、朝10〜11時に起きるってことです。たっぷり寝てるので、深夜〜早朝とは言え、食べた後はパワー全開状態になります。

明るいとか暗いとかは、大人が気にすることであって、子供にとっては自分の体内時計が全てみたいです。子供をみててスゴいなーと思うことはしばしばあるけど、これもスゴいよなー、と思いましたね。

おかげで日本に帰ってからも、二人に時差ボケはなく、帰国翌日、元気に保育園へ行き、1週間前と同じように遊んでたとさ。

2010年11月18日木曜日

プーリア州のオリーブ収穫


前回のエントリ冒頭に、オリーブの木が延々と続くプーリア州の風景写真があるが、左の写真は、その風景の続きである、オストゥーニ郊外にあるアグリツーリズモ、Masseria Salinolaのオリーブの木。この木は、畑ではなく宿泊施設などがある塀で囲まれた敷地内の庭にあったもの。つまり庭木なんだけど、入り口の門を入って母屋への途中に、不動明王のように鎮座されている。これが樹齢1000年という。「どーやって1000年というのが分かるの?」という疑問はさて置き、存在感は圧巻だ。下の部分が割れてるが、数百年以上になると、スッーと一本になってる木はほとんどなかった。そして、このMasseria Salinolaの敷地から畑に移動し、「オリーブの収穫体験」をさせてもらった。

収穫体験させてもらったオリーブの実が右の写真。最初に収穫する木の下にネットを敷いて、たわわになっている実の黒くなっているものだけを落とす。高いところの実は、熊手のようなもので掻き落とす。こんなに間近に木になってる本場のオリーブの実なんて初めてだったから、黒い実を口に入れてみた。農場の人は、「マズいよ−」と苦い顔して注意してくれたけど、こんな経験そうは出来ない。思ったより水分が多かったのが印象的。皮がブドウのように口の中でプチッとはじけた。今度は手で実の皮を破いてみたら、そのジュースがピュッと飛んでシャツに飛び散ったぐらいだ。味は、もちろんオイリーな感じはあったけど、渋く、苦く、エグく、酸味もあり、後味で舌がしびれる感じ。アドバイスどおり、ペッとはき出す。

そしてこれが収穫した実。少しは緑色のもあるけど、だいたい黒いのが多いでしょ。私たちはお遊びの収穫なので手詰みとなるが、ほとんどは、機械で幹を揺すったり、自然に落ちたりしたものが収穫される。手詰みの方が、ちょうど熟れ時の実が多くなるから、ワンランク上のオイルになるらしい。まぁ、どんな方法にせよ、収穫した実は、近くの圧搾工場に運ばれて絞られる。私は、水分が多いことが気になったので、その点を質問したら、「絞った汁を2週間置いとくと、オイルと汁に分離する」とのこと。そのオイル部分が、オリーブオイルとなるらしい。だから、私たちの収穫した実がオイルになるのは2週間以上先の話になる。

そんでもって、今度はこの農園で作られたオリーブオイルを試食した。ん〜、実よりもずいぶんやさしく旨みがあるが、後味の刺激感は同じようなものがあった。私が東京で買うイタリア産のオリーブオイルにはこういう刺激感は少ない。何が違うのだろうか。よくオリーブオイルの宣伝文句に、「酸度が低い」というのがある。ここのオリーブオイルも、添乗員の方が「酸度が低いオリーブオイルです」と説明していた。この後味の刺激感は酸度とは関係ないのか。それともフレッシュさから由来するものであろうか。これがトスカーナでなくプーリアの特徴なのだろうか。未だに分からない。

でもって、こちらが樹齢800年様。1000年様より200年ぐらい小さい(ふざけてゴメンナサイ)。今度は人が入った写真だから大きさが分かるでしょ。ここの息子さんがうちの子(3歳)を抱き上げようとしてくれている。この800年様も真ん中が割れているが、1本のオリーブです。大人でもその割れ目に入れるぐらい。うちの子は、その割れ目に入って遊んでたんですね。そこを出たところの風景です。

で、収穫体験の後は、畑の脇でここのお母さんの料理のプチ前菜パーティーです。何でプチ前菜かというと、このあと母屋のレストランで改めてランチだったから。まー何食べてもおいしい。左に赤く見えるのはブルスケッタのトマトで、もちろんワイン、右は熟成タイプのチーズなんですが、そのチーズに刺さってるツマヨウジ、分かりますか? よくある紙製のカバーに入ったツマヨウジなんだけど、紙からツマヨウジを完全に出さないで、半分だけむく感じで、紙の部分がよりになってる。その部分がツマヨウジのグリップになってるんですね。それをお見せしたくて、この写真載せました。オッシャレェ〜。是非、真似してください。

まだまだ続く、イタリア旅行のブログです。

2010年11月17日水曜日

南イタリアのアグリツーリズモ


先週一週間、イタリア南部、プーリア州とバジリカータ州に行ってきた。ブーツの形のイタリアの、カカトからクルブシの辺りだ。海沿いのプーリア州は延々とオリーブの畑が続き、内陸のバジリカータ州は、緩やかな稜線に畑と森が続く。上の写真は、プーリア州オストゥーニの町から撮ったもの。遠目に見える海はアドリア海。そこまで延々と続く木々はすべてオリーブだ。

今回の旅行は、「カンホアの塩」のサイトにもレシピを提供してもらっているカノウユミコさんが主役。「カノウユミコ先生と行くイタリアの食卓」というタイトルの総勢十数名のグループツアー旅行だった。このツアーを企画した旅行会社の方の添乗もあった。

私は、カミさんと子供2人とともに家族での参加。子連れ旅行という面はさて置き、私にとって、生まれて初めてのグループツアー旅行。通常のツアー旅行としては、ゆったりした日程だったらしいが、私にとっては駆け足だった。しかし、チャーターされたバスに乗るだけで次々といろんな場所に行け、レストランでも何も悩まずともいろんなおいしいものが食べられた。これはツアーならではです。ただその分、仲良くなるのは、ツアーグループのメンバーだけで、現地の人で仲良くなった人はひとりもいなかった。行く前から分かっちゃいたが、その点はちょっと消化不良。初めてだったからそう思うだけで、ツアー旅行とはそういうものですね。

さて、この旅行、言わずもがな「食」がテーマ。そして訪れた先には、アグリツーリズモと呼ばれるちょっと特別なところ2箇所が含まれた。アグリツーリズモという言葉は、アグリ(農)とツーリズモ(観光)が合わさった造語。農家に宿泊施設などが併設していて、農家に泊まる民宿と言ったらいいだろうか。ただ民宿とは言え、立ち寄った2箇所のアグリツーリズモはどちらもプールまであるとても立派な施設だった。このアグリツーリズモは基本的には農家だから、通常交通の便は悪く、イタリア人でもなかなか行き着けないことがあるらしい。その点、このツアー旅行では、バスに乗ってるだけで着くのだから、超楽チン。これは言っておかねばなるまい。

とりあえず、以下がその2つのアグリツーリズモ。

Masseria Salinola(プーリア州オストゥーニ郊外)

La Foresteria di San Leo(バジリカータ州トリヴィーニョ村の郊外)

アグリツーリズモはイタリアが発祥とされていて、もう100年とかの歴史がある。それがイタリアには1万を超える数があると言うから驚く。「1万って何かの間違えだろ?」と思って、帰国後ネットで調べてみたら、「シエナ県だけで4百軒近い数がある」という記述があった。シエナ県とは、トスカーナ州の10ある県のひとつに過ぎない。そしてイタリアには20の州があるから、全土で1万というのも、計算が合う。改めて驚く。

また、イタリア政府公認のアグリツーリズモには国の後押しがあるらしい。おそらく助成金が出るのだろう。ただし、政府のお墨付きになるには、「観光の収入は、農業の収入を上回ってはいけない」という決まりがあると言う。(上回るとただのリゾートホテルになっちゃうからね) 詳しいことは分からないが言えるのは、少なくともイタリア政府はこうして昔から農業振興のための政策を図っている。それは農業政策というだけでなく、文化的にもスゴイことだと思う。農業は黙々と農作物を作るイメージだけど、観光はまるっきりサービス業。それこそ畑が違う。でも、この異質な2つものの組み合わせが、大げさに言えば、新しい文化なんだと思う。

左の写真は、プーリア州オストゥーニ郊外にある、Masseria Salinolaというアグリツーリズモの主人であるお父さんとその息子。とても愛想のいい息子さんは、私たちの到着後すぐに英語で親しげに話しかけてくれた。そして、オリーブ畑への道すがら車の中で5分ぐらい話ができた。「このイタリア旅行は1週間の日程であちこちまわる。ここの後は、トリヴィーニョに行くんだ。慌ただしくて悪いね。君は1ヶ月とか休暇をとるんでしょ?」ときいたら、「何言ってんだ。オレは一年中休暇なんてないよ。今はオリーブの収穫に忙しいし、来月からは・・・、1〜2月は・・・」と一年間のスケジュールを説明し、1週間の休暇も取れずに働いているんだと真顔で言う。なんかヨーロッパの人って長いバカンスってイメージあるけど、もちろんみんながバカンスできる訳じゃない。当たり前だけどね。車を降りると、「そのへんあちこち勝手に歩いててよ」と言い残し、来客のピストン移動に忙しい。

一方、お父さんはテーブルのセッティングなど、私たちのオリーブ手詰み体験の準備をしてくれる。英語を話さないということもあろうが、終始黙々と作業をしている。この二人のコントラストが、なんかまばゆかったなー。この写真からも何となくその二人の雰囲気が伝わるように思う。そしてこの二人を見守るやさしそうなお母さんは、このとき、食事の準備の真っ最中だ。農業だけをやっている農家ではこういうことはなかろう。アグリツーリズモは、ときに家族の風通しのよさにも寄与しているように感じた。「頑張れ息子!」って感じです。

さてさて、このツアー旅行は「食」がテーマでした。
おいしいものいっぱい食べ過ぎて、何を書いていいやら・・・・・
それはこの次トライしまーす。

2010年11月4日木曜日

白抜きタンメン 【その2】

前回のエントリ、「白抜きタンメン 【その1】」の続きです。

まぁ、そういうことで、「白抜きタンメン 【その1】」にある写真の「白抜きタンメン」に至るまでには私なりの「道のり」がありました。初訪の際は、普通に「タンメン」と注文するだけ。でも、ポーズで新聞なんか読みながらも、五感を研ぎ澄ませ、タンメンの味はもちろん、店の様子や店の人の雰囲気なんかをよーくうかがうのです。(←ここんとこがとっても大事) そして「この店はもし説明の段になっても聞いてくれるかも知れない」と感じたので、その後もお客さんの少なそうな時間を狙って足を運びました。そのうち、だんだんお店の人とも親しくなっていき、ついに「お客は私ひとり」状態のときがやってきた!

「あの〜、白抜きって分かりますか?」
「ん〜、何それ? 知らねぇーなー」
「昔の隠語なんですけど、・・・・・・ということなんです」

そしたら、「本当に大丈夫なんですか?」と最初は言ってたけど、結局は「今度から、そう言ってくれればそうしますよ」と言ってもらえた。・・・・と、その話がついた瞬間に、新しいお客さんが入ってきたことを今でも覚えています。そんな末に、写真の白抜きタンメンは存在するのです。ハァー。

当初は、お店の人からも、「そんなのおいしいの?」と疑われたけど、最近は、「これはこれで結構いけるよね」とまで言ってもらえるようになりました。私は、他のラーメン屋さんなんかでも何度か「白抜き」での注文を試みたことがあります。通りすがりの店では決してしません。もっぱら仕事場や自宅の近所です。こんな冷や汗かきながらのことを、一度しか行かない店で試みるのはバカらしいですから。それでその反応はというと、お店によって様々です。もちろんイヤな顔をする人もいます。「この店で出してるラーメンがイヤなら来るな」とは言わないまでも、その意見は筋が通ってるので、反論の余地もありませんから。

まぁ、これは食い物に対する私の異常なまでの執念かとも思えるので、あまり安易に人には勧められませんが、他のお客さんにバレないように、この言葉が広く浸透することを心から祈るばかりです。

そしてもう一つ。「白抜きタンメン」の注意点として言っておきたいことがあります。

通常の白入りタンメンと比べ、白抜きタンメンは加える塩の量が少なくなります。つまり、化学調味料というヤツは、塩気を抑える働きがあるんです。私の感覚では、化学調味料の強烈なうまみが、舌の味覚をやや麻痺させつつ舌を覆う感じがあるのです。だから、ある一定量以上の化学調味料の入ったラーメンなど食べた後は、食べ終わってしばらくたっても必ず舌の上にその味が残ります。まぁ、その感覚が好きじゃないので、私は「白抜き」ってお願いするんです。

それでー、塩の量が少なくなるってことはです。普段白入りタンメンを作るのに慣れてる料理人さんは、白抜きにするとついつい多めの塩になりがちなのです。だから、快くわがままな「白抜き」を受け入れてくれた際は、「薄塩で」と軽く言葉を添えると、ちょうどいい塩加減のタンメンにありつけることが多いです。ご参考まで。

それから、やや手前味噌ですが、「カンホアの塩」のサイトで紹介している「カノウユミコ・塩料理レシピ集」では、「白菜の精進塩ラーメン」という、ベジのタンメンのレシピもあります。ガラスープなど動物性の食材を全く使ってないタンメンだけど、先入観なしに食べてみると、やっぱりタンメンは野菜から染み出た味がおいしいんだと再認識できます。是非お試しを。

最後に、1冊、本の紹介です。
関東地方限定ではありますが、「無化調ラーメンMAP(幹書房)」という本も出版されてます。(2008年8月の発行)「化学調味料はちょっと入っている方がおいしい」という人もいます。でも、無化調ラーメン、とっても応援したい私です。

2010年11月2日火曜日

白抜きタンメン 【その1】


「白(シロ)抜き」・・・・分かりますか?

ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、30年以上前には通じたの中華料理屋さん及びラーメン屋さんでの隠語です。私は東京育ちなので、もしかすると東京地方限定だったかも知れません。「白」は化学調味料を意味します。その色が真っ白なので、そのまま「白(シロ)」。だから「白抜き」で「化学調味料抜き」となります。

上の写真のタンメンは「白抜き」で注文したもの(写真で分かる訳ねぇ〜よ〜)。まぁ最近は、「無化調(化学調味料ナシ)」という言葉がだいぶ一般化してきてるけど、昔は、「白抜き」って言うとだいたい通じたものなんです。「無化調」という言葉が生まれるずっと前にも、化学調味料が苦手な人が少なからずいた、とも言えます。

それで「白抜きタンメン」ですが、「白抜き」が「タンメン」というところにも実は意味があります。例えば、醤油味のラーメンに「白抜き」は御法度です。通常、醤油味のラーメンのスープは、あらかじめ仕込んである醤油味の濃いタレを、注文を受けてから熱いガラスープなどで割ります。そのタレはあらかじめ化学調味料も加えて仕込んであるため、「白抜き」は無理なのです。味噌ラーメンも同様なことが多いです。

しかし、通常タンメンは、注文があってから、野菜を軽く炒め、ガラスープなどを加えた後、少し煮ながら、(化学調味料も含めた)塩味の味つけをします。その味つけの工程で化学調味料を加えなければいいのですから、タンメンは通常、「白抜き」可能な場合が多いのです。もちろん、タンメンのスープのタレもあらかじめ仕込んでいるような店ではダメだけど、そもそもタンメンのおいしさは、その少し煮ている間にスープに染み渡る野菜の味。野菜のシャキシャキ感を残しつつ野菜の味をスープに染み渡らせる。そしてその味を活かすため、味つけはシンプルに塩。このへんがタンメンの妙なので、タンメンのスープのタレは前もって仕込まれないのが普通です。

とは言え、現実的に、初めて入る店で、「白抜き」とはなかなか言えないもの。また言っても最近は通じないことが多いし。「白抜き」と言葉を発して通じなかった場合、店の人に説明しなくてはいけません。それが礼儀でしょう。ただ特に他のお客さんの聞こえるところでその説明はしにくい。最近はかなり少なくなってきたと思うけど、ほとんどの中華料理屋、ラーメン屋さんでは化学調味料が使われていることを知らない人がいるからです。もしそういう人が聞こえるところでその説明をするということは、「この店では化学調味料を使っているんですよ」と、知らない人にわざわざ説明することになるからね。それはお店にとって愉快なことではないだろうと思う。

ちょっと話が長くなってきそうなので、きょうはここまで。写真の白抜きタンメンは、当初この店の人は「白抜き」を知らなかったけど、なんとかお願いできるようになってのものです。次のエントリでは、そのへん詳しくレポートしまーす。

2010年10月26日火曜日

【空想】日本の農業


先のエントリ、「生物多様性」という思想、の続きです。

GM作物の問題を考えるとき、当然のことながら、農業の規模は大きな要素だ。アメリカの農業はひたすらデカく、日本は小さい。この対比の上に立って、日本の農業を空想してみたいと思うのです。GM作物に対して反対派の私だけど、もしも現実的にGM作物が今後どんどん広がっていくとしても、こんな手があるんじゃないかという空想です。

最初に断っておきますが、私は農業に関しては、全くの素人です。でも、GM作物に詳しくない私が「詳しくない」なりにGM作物について書くように、それなりに思うことはあるのです。強いて言えば、ド素人または消費者だからできる空想ってものももしかしたらあるかも知れない、という淡ーい期待をエネルギーにして、自信な〜く書こうと思います。

GM作物の農業の長所はその生産性・効率性。だから、農業の規模は大きいほど有利になります。ヘリコプターで農薬撒くんだからね。それは日本の農業と比べると、同じ「農業」という言葉を使っていいのか疑問になる程違います。前々回のエントリ、遺伝子組み換え作物(GM作物)、の下の方に、GM作物の主な生産国のランキングがあるけど、ほとんどでっかい国ですね。(ロシアがないのが不思議だけど) まぁ、言うまでもないけど、GM作物の生産で日本がデカイ国にかなわないのは明白です。でも、かなわないというだけじゃ面白くない。

さてさて前置きはこのくらいにして、はじめましょう。

まず、あえて日本では、少なくとも国内でGM作物は作らない。禁止する。つまり、国内の農業は全て非GM作物。よほど特殊な作物でない限り、日本はGM作物の輸出国にはなれないだろうけど。何しろこれがファーストステップ。

次に、生産禁止とは言っても、日本は現在でもGM作物の輸入はしているので、これは最低限にしなくてはならない。そして大切なのは、国内での非GM作物との交配は絶対に起こらないようにコントロールしなくてはいけません。技術大国日本は、そのコントロールに英知を注ぐのです。ここが大きなポイントになります。世界中の人たちは、正直な気持ちとして、「できたら、非GM作物を食べたい」と思っています。ただ、経済的に安いGM作物でないと懐が厳しいという事情があります。しかしどの国・地域でも富裕層という人たちはいるので、そういう人たちは非GM作物だけを食べます。つまり、GM作物が広がれば広がるほど、非GM作物の商品価値は上がるのです。

“made in Japan”ならぬ“cultivated in Japan”の農産物は、非GM作物だけに特化し、しかもGM作物との交配の心配が全くない。非GM作物だけでなく、有機栽培・自然農法ものなどそのバリエーションも豊富にする。日本の農業は、小規模がゆえにそのコントロールにはかえって都合がいいのです。当然、島国という立地条件も、大陸の国に比べたら有利でしょう。

さらに、これからの日本の国内事情として、人口は減る一方です。ということは、もちろん将来の食料は今より少なくていいのです。人口が急激に増えてる大きな国に比べ、その食料確保に躍起になる必要は断然少ないハズ。

また、今の日本の経済(GDP)は下降気味です。人口が減る限り、デフレ基調が続く限り、またモノが豊かになったこの国の雰囲気として、GDPを急激に上げるのは難しいでしょう。だから、付加価値の大きいブランド非GM作物を作り、世界の富裕層たちに買ってもらう。もしかすると、世界中の大金持ちたちは、少しでも新鮮なものをと日本に引っ越してくるかも知れません。そうすれば、日本の税収も増えます。また“cultivated in Japan”の農産物は日本で消費される限りは、輸送・貯蔵コストは低くなるので、日本に住んでる人にとって、その分は安く買えるという恩恵もあります。

こう書くと、金持ちのための農業と思われるかも知れませんが、それだけではありません。そうこうしているうちに、日本は、高品質な農産物の生産技術と非GM作物とGM作物との交配を防ぐ技術は、折り紙付きの世界一になりますから、その技術セットを、「GM作物はやっぱりヤバイ」となったとき、必要になった国・地域に譲与するのです。だからある程度の技術に達したところで、日本は世界に向けそれを宣言します。つまりは、その技術を磨くために世界の富裕層に非GM作物を売り、その間養った農業技術を還元するのです。これが結果的に富・サービスの再配分ということになります。言葉をかえれば、日本の農業は「GM作物はやっぱりヤバイ」の安全弁という役割を担うのです。

この空想の一番のネックは、日本の政治かな。
繰り返しますが、以上、私の空想でした。

2010年10月15日金曜日

「生物多様性」という思想


上の写真は数年前の11月、京都の大原あたりで撮ったもの。「これが鈴なり」って言ってる柿の木があまりに見事だったんで。背景の稜線の柔らかさも、私はこの地方らしく感じる。

さて、前回の投稿の続きです。

「どーもモヤモヤが晴れない」

この遺伝子組み換え作物(GM作物)の問題を考えると、私は必ずモヤモヤが残るのだ。それは、一番の論点である「危険性/安全性」がハッキリしないことだ。

GM作物の賛成派は、農業試験場などで十分に検討した結果、生態系、種の保存なども含め「大丈夫」だと言う。これに対し、反対派は、たかだか数年の実験などで「十分な検討」とは言えない。隔離された試験場内でそれも数世代だけの試験。自然界では想像もつかない交配もあり得るし、世代も例えば50年後、100年後のことなど、「大丈夫」などと誰が分かるものかと反論する。

反対派の主張を続けよう。

ブラックバスなどでも在来種と外来種の問題があるけど、もしも強力な除草剤や農薬に負けない組み換えられた遺伝子を持つ植物があちこちに生え始めたら、ブラックバスのようにとてもコントロールできなくなる。事実すでに「スーパー雑草」と呼ばれる除草剤の効かない植物が生え始めている。GM作物の広がりはその傾向をさらに進ませ、「とりかえしのつかないこと」になる。

「とりかえしのつかないこと」を想像すると、それはそれは恐ろしい。仮に、「GMナタネと在来種のナタネがある複雑な条件下で交配してできたナタネは、人体にも悪影響を及ぼす」としたら。そしてそのGMナタネの遺伝子を持つナタネはどんな除草剤も効かず加速度的に日本全国に広まるとしたら・・・・と、もしもうこうなると公害だ。

もしかしたらGM作物の「危険性/安全性」は、ハッキリしないと言うより、そもそもハッキリできないものなのではないか。もしそうなら、それはもう感覚の問題なんじゃないか。個人個人の感覚という意味だ。例えば「特別(科学的な)根拠はないけど、イヤな気がする」ぐらいも含めて。昔から、特に第一次産業では、感覚的に決められた「限度」があって、それを超えたことはしてはいけない、みたいなことがあると思う。里山の習慣もしかり。「遺伝子組み換え」とは、感覚的にその限度を超えているような気がしてならない。私がGM作物の反対派な理由も結局はそれだ。物事には何でも限度があるが、その限度は超えたときに初めてハッキリする・・・・なんてシナリオはイヤなのだ。だから現状を考えても、せめて最小限にしといた方がいいんじゃないの〜という気持ちになる。

だいたいひとつの便利な「種」だけが生き残るような世界(または畑)は感覚的に異常にうつる。「生物多様性」とは主に自然界全体のことを示すのだろうが、身近な人間社会でも同じだ。人間社会でも「人間多様性」というか「いろんな人間がいる」からこそ、人間社会が成り立っているように思える。いつもグータラでもいざいというときは頼りがいのある人、人と話すのは苦手だけど知識だけはやたらと豊富な人、どんな人でも何かしらの意味があるものだ。もちろん生態系は人間社会のずっと上位に位置し、その恩恵でもって人間は生きている、生きさせてもらっている。

また私は特に宗教に属してないが、神様、またはそのようなものの存在は信じている。「GM作物は自然界の交配では生まれてこない」。この「自然界の交配」を「神様の仕業」だとすると、遺伝子組み換えは神様に逆らっていることになりはしないか。

そう思うと、「生物多様性」を重んじるというのはひとつの思想なんじゃないかという気がしてくる。思想だから、それは正しいとか間違っているとかの問題じゃないし、強制力も持たない。ただ個人の感覚として、「これはこう思う」というのがあり、同じように思う人がある程度いればそれはひとつの思想なんじゃないかと。

先の投稿で、「私は、GM作物の問題について特別詳しくない私がそれなりに考えることも意味があるのでは・・・」と書いた。詳しくはなくとも「個人の感覚」はある。そしてその「危険性/安全性」が感覚的な問題だとしたら、これは大いに言わないと、と思ったのだ。

ところで、名古屋のMOP5は、「名古屋・クアラルンプール補足議定書」という形で、ある程度の成果を得たようだ。(以下、10月11日付け“YOMIURI ONLINE”から抜粋)

補償の対象範囲は「遺伝子組み換え生物」と簡潔に表現することで折り合った。食用油や飼料などの加工品は対象から除外されることが明確になり、日本の担当者は「日本の主張通りになった」と話した。

何となく、「日本の現状を否定しない内容に落ち着いてよかった」というお役人的な雰囲気も感じなくもないけど。この「補足」議定書の元は「カルタヘナ議定書」。これは言葉にすると難しくなるけど、一応、「生物多様性の保全や持続可能な利用に対する悪影響を防止するため、遺伝子組換え生物(LMO)の国境を超える移送、利用等において講じるべき措置について規定したもの」となっている。

この「カルタヘナ議定書」の160の締約国にアメリカは入っていない。これって温室効果ガス(CO2など)の削減を謳った京都議定書にアメリカが入ってない(抜けたのかな?)のとそっくり。世界で一番GM作物を作っている国、そして世界で一番車が多い国。その国がルール作りを話し合うテーブルにつかない。外交とはギブアンドテイクだと言う人がいた。何かを得ないと何かを譲れない。大きな国にこそ、その大きな懐を見せてもらいたいのに。頑張れ「グリーン・ニューディール」。経済的な国益優先という考え方も、人間社会の多様性の一部分ということか。アメリカの一般市民はどう思っているのだろう。

そんなアメリカの農業の規模は、ご存じのとおり、ひたすらデカイ。このGM作物の問題、日本の農業の規模を考えるととても同じ視点では考えられない気がするけど、どうなんだろう? ん〜、また長くなってしまいました。それはまたこの次に。

2010年10月13日水曜日

遺伝子組み換え作物(GM作物)


一昨日から、COP10/MOP5という国連の国際会議が、名古屋にて開かれている。最近は、マスコミでもしばしば出てくるのでご存じの方も多い・・・・と思いきや、うちのカミさんに「コップジュウとかモップゴとか知ってる?」ときいたら「知らない」と言う。どちらも環境問題の会議だけど、それだけじゃ内容が分からない。とても重要な会議と言われちゃぁいるが、われわれ一般人に具体的なことは分かりにくいのかも知れない。

とは言え、私は1年ほど前、「食と農から生物多様性を考える市民ネットワーク」というグループに入会した。入会ったって、1万円会費を払っただけで、私自身は特別な活動はしていない。でも、このグループの意義や活動に賛同し、入会した。そのお陰で、私はこの「生物多様性」ということを一歩踏み込んで考える機会を得た。

食と農から生物多様性を考える市民ネットワーク MOP5市民ネット

COP10支援実行委員会 公式ウェブサイト

でまぁ、分かりにくいから放っておく、というのではなくて、いろいろある議題の中から、その中心的議題でもあるGM作物(遺伝子組み換え作物)の問題について書いてみようと思う。これはMOP5の方の議題にあたる。

だけど、私は、GM作物の問題について特別詳しくない。ただ私レベルの「詳しくない」人はきっとたくさんいるように思う。そして何よりこの問題は私たちの食生活に大きく関係していることぐらいは分かる。だからそのぐらいの私がそれなりに考えることにも意味があるのではないかと思うのです。ちなみにここに出てくる情報は、主に最近の東京新聞からの拾い読みです。

まず、GM作物についてざっと少し。

バイオテクノロジーで、遺伝子を組み換えられて作られた、自然界の交配では生まれてこない作物(主に農作物)。その目的は、除草剤や病害虫への耐性など。例えば、そのGM作物専用の除草剤・農薬を撒くと、そのGM作物以外の植物はすっかり枯れて虫も全滅する。その環境下、そのGM作物だけは生き続けるから、農業が簡単になり、生産性が向上する。また、ひとつの種からの収量も増える種子を開発するから、全体的に作付面積比で収穫量を大幅アップでき、安価な農作物を生産できる、というものだ。

納豆とか買うと、表示ラベルに「大豆(遺伝子組み換えではない)」とか書いてありますね。反対に「大豆(遺伝子組み換え)」というのは見たことがない。それは「遺伝子組み換え」の表示義務がないから。日本で流通している食用油の大半は遺伝子組み換えのナタネ、大豆で作られているから、すでに私たちは食べ始めています。ただ日本ではまだ研究段階で国内産のGM作物はない(サントリーの青いバラだけ)。だからその食用油の原料になっているGM作物は全て輸入です。

かなりおおまかだけど、賛成派と反対派の意見は以下のとおりだと思う。

【賛成派の意見】
今後の人口増加にともなう食料事情からして、GM作物は必要。天候不順また異常気象にもより適応でき、安定した収穫量が期待できる。しかも安い。

【反対派の意見】
ナタネなどのGM作物はいくら管理しても、輸送中にこぼれ落ちるなどして、広がる。現在、まだその安全性は確認されていない。このまま放置すれば、生態系など自然環境に重大な問題を引き起こす可能性もある。

ここでの大きな論点は、生態系への影響も含む「危険性/安全性」だろう。その点について、GM作物の開発企業(GM作物の種と除草剤・農薬のセットの開発)である、アメリカの多国籍企業・モンサント社の日本法人は、「輸入されているGM作物は農水省にも認められており、日本の生態系にも影響を与えません」として「実害」は「起きていない」と主張してます。また日本の農水省は、2006年〜2008年の調査結果を示し、「こぼれ落ちたナタネは自生しても広がらず、環境への影響はない」と雑種の発生を否定しています。

一方、反対派は、遺伝子組み換えが行われ始めて、まだ30〜40年ぐらいで、大規模に広がってきたのは、ここ最近のことなんだから、そんな「大丈夫」は信用できない。だからもっと慎重に検討すべきだ、という見解である。

ここまで主にGM作物の是非論を書いてきましたが、今回のCOP10/MOP5という会議での論点はと言うと、その是非論ではありません。GM作物が悪影響を与えた場合の賠償制度の国際ルール(責任と救済)を決められるかどうか。つまり、なんかヤバイことが起こった場合、GM作物輸出国は輸入国に対して賠償金を払ったり現状復帰を保証する制度を作れるかどうか、です。また、その制度でもって抑止力とするという感じもあるのかな。何しろもうサイコロは振られているからね。

ちなみにGM作物の主な生産国は(作付面積の広い順に)、

1.アメリカ
2.ブラジル
3.アルゼンチン
4.インド
5.カナダ
6.中国
7.南アフリカ
(アグリバイオ事業団調べ。2009年)

となっています。第一位のアメリカは、GM作物の「母国」なので、ダントツです。

で、私ですが、GM作物に対しては反対派です。日本の与党のマニュフェストには、今後力を入れていく産業としてバイオテクノロジー(GM作物とまでは言及してるかは不明)があげられてますが、反対派の私としては、決め手に欠いた政党の苦し紛れの「バイオテクノロジー」のように聞こえてしまって、ちょっと不安です。

長くなってしまったので、きょうはこれでおしまい。「詳しくない」とか言いながら、いろいろ書いてるじゃねぇ〜か、と言われそうですが、最近の新聞(一般紙)記事の範囲です。ただそれを読んでて感じるのは、どーもモヤモヤしたものが晴れないこと。そんなことを含め、次のエントリでこの続きを書きたいと思っています。では。

2010年9月28日火曜日

ガマガエル様


一昨日の日曜日、庭の草刈りしていたカミさんが急に「わぁー」と声を張り上げた。「こんなとこにいたー」。鎌を片手に目を丸くして仁王立ち。上の写真の、草むらに鎮座されているガマガエル様を見つけたのだ。カメラのフラッシュをたいても微動だにしない。すごい存在感だ。決して広くない東京・昭島の我が家の庭でのこと。

私は、たぶん異常と思えるほど、このガマガエルを特別な存在としている。それはたぶん、緑と言えば公園の植え込みか軒先の植木鉢しかない東京の下町に生まれ育ったためだと思っている。その反動として、妙にまたは変に自然に対する畏敬の念が強いのだ。だからこの場合のように、少しのキッカケがあるだけで、ガマガエルに「様」をつけずにはいられなくなる。

最初のご対面は7〜8年前のこと。やはり庭の草刈りをしていた私が、草むらで見つけて驚いた。この庭に池はない。一番近い(決してきれいとは言えない)疎水で500メートルぐらいの距離。また、この借家に入居したとき(10年ほど前)、この庭は一面除草剤が撒かれていて、真っ平らだった。つまり、どっかからやってきたということ。それって一体どこから? 塀で囲まれたこの場所へたどり着くには、車も走るアスファルトの道路を通ってこなければならない。

時は流れ、その初対面から2〜3年後、ミョウガの草むらで干からびたガマガエル様を見つけた。とってもガッカリしたが、仕方ない。「そう居心地のいい場所じゃないよな、ここは。水場もないし。なんでこんなところに来なきゃいけななかったのかなぁ・・・・」なんて思いながらそのご遺体を裏庭の山椒の木の下に埋めた。

そして更にその2〜3年後。つまり今から2〜3年前の天気のいい冬の日のこと。木の苗を植えようと、鍬で乾ききった土を掘ってたら、直径10cmぐらいの土がいきなりモコモコっと盛り上がった。このときは本当にビックリした。まるでオカルト映画の特殊映像のようだった。一生忘れない。盛り上がった土は、土まみれになったガマガエル様だった。冬眠中に起こされて、ガマガエル様も驚いただろうが、私だって驚いた。粘性のある全身の皮膚は冬の乾いた土にまみれ、とんかつ状態。それが鍬を入れた瞬間、地中から這い上がってきたのだ。起こしちゃったことは仕方ない。また穴に入ってもらって、土をかぶせた。

このとき私は「おー、こんなところで生きてたかー」と、土まみれのガマガエル様を、干からびた遺体の生まれ変わりのように感じていた。

その後は、年に1〜2度お目にかかる機会があり、その度ごとにとても有り難い気持ちになった。夜中にごそごそと動き回るのを見つけたときは、5歳の娘といっしょに、懐中電灯で照らしていつまでも眺めていた。

そして更に時は流れ、今年の6月の朝、家を出て保育園へ向かった娘が、すぐに走って帰ってきた。「カエルさんが、カエルさんが・・・・」。あとの言葉が出ない。すぐ近くのアスファルトの上で、ガマガエル様が車に踏まれていたのを見つけたのだった。私も早速見に行った。「あ〜、ついに・・・・。でもやはり仕方ないよな」と思いながら、山椒の木の下に埋めた。

そして昨日。ご覧のとおり、鎮座されているんですねぇ〜。でぇーんと、微動だにせず。もう嬉しいの一言だ。ご遺体を含め、どれがどのガマガエル様かは分からない。だけど、私にはどうも一連のガマガエル様が一匹のガマガエル様に思えてならない。

昔どっかの田舎の田んぼ脇の道で、夜中にガマガエルが集団で大移動しているところを見たことがある。あれが我が家の辺りでもあったのか。そう考えるとワクワクするが、ただ近所の誰かが飼ってたのが逃げ出しただけなのかも知れない。そんなことはもうどうでもいい。ただただ私は、この威風堂々としたお姿にお目にかかれるだけで、心を打たれるのだ。その度になぜか手を合わせたくなる。

さて、この写真を撮ってから数分後、再び同じ草むらをのぞき見ると、もういない。辺りを見てもみつからない。この神出鬼没さがまたたまらない。「またどこかお好きな場所へ移っだけだ」と深く探してはいけない気持ちになる。そのぐらい、私にはおそれ多い存在で、我が家の守り神のように思っている。

2010年9月21日火曜日

どぜう鍋


まだまだ猛暑の最中、1ヶ月ほど前の8月末、浅草へ行った。上の写真は、そのとき浅草寺の境内から撮った東京スカイツリー。あんまりデカイんでビックリした。デカイって言ったって、近くまで行った訳じゃない。浅草寺からだから、隅田川を越えてしばらく行った先。結構ある。結構あるにもかかわらず、正面中央に建ってるビルのすぐ向こう側に建ってるように見えた。いや〜、何しろデカイ。こんなデカイのが本当に必要なのかと疑りたくなるぐらいデカイです。

さて、観音様をお参りした後、知人との昼食に向かった。「駒形どぜう」。ふたりで「マル(鍋)」を2皿頼んで、ささがきゴボウも2皿、おしんこにつくね団子。実はこの注文から始まってるが、このお相手の方には、確固たるどぜう鍋の作法または流儀があった。

最初にネギをたっぷり、マル(骨つき)のどぜうが並んだ浅ーい鍋に無理矢理のせて、山盛りになったネギを箸の腹でギューギュー。ネギに火が通ったところでネギを食い、ネギがなくなったらまたネギをのせる。その間、割り下の追加は怠らない。こうしてひたすらネギを食い続けた後、「仕方ない」ぐらいの感じで遂にはどぜうを食べる。鍋にどぜうがなくなったところで、今度はささがきゴボウを山盛りのせる。そこへ2皿目のマルを仲居さんにのせてもらう。ゴボウがしんなりしてきて、鍋が平らになったら再びネギを投入。ネギに火が通ったらネギ、どぜう、ごぼうと食べる。

あらたまっての説明は要らないかも知れないが、どぜうの鉄鍋は浅い。深さ1センチぐらいのものか。そして小さい。直径15センチぐらいのものか。だから、ネギを山盛りにするには無理がある。その無理を、ネギをのせる丁寧さ几帳面さで乗り越える。このへんが何となく東京っぽい。そしてそれがこの作法・流儀の要点だ。大変勉強になりました。

このときのお相手の方から次の日、下記のようなメールをもらった。

>>「どぜう」または「どじゃう」は「ねぎ」と「ごぼう」を食うもんで、泥鰌は出汁取りの添え物にすぎない。特に夏はそれが顕著な食いもんだ。

その通りでございます。
夏に旨い鍋、ここにあり。
どぜうは夏、汗かきながら食べるのがうまい。
東京には「駒形」の他にも何軒かどぜう屋がある。どこも江戸の雰囲気を感じられてとても楽しい。「どぜうなんて、泥臭そうでイヤだ」という方、そんなことありません。ネギやゴボウをたんまり入れるのは、泥臭いからじゃなく、それが合うからなのです。・・・・口の奥に唾液がたまってくる。

どぜう鍋から1ヶ月過ぎた昨日。東京スカイツリーのすぐ下を通った。下の写真は、200メートルぐらいからのもの。浅草寺からの方が大きく見えたのはなぜだろう? 昨日は大粒のにわか雨がときどき降る不安定な天気。秋が足早にやってきそうだ。

2010年9月8日水曜日

在来種の蕎麦


カノウユミコさんのお米に関する記事が載ってるというので、「自遊人」の9月号を先日手に取った。「個性的な複数のお米を混ぜて、ブレンド米を楽しもう」という内容で、「なーるほど」なんて思っていたら、その号のメインの特集記事に目が留まった。タイトルは、

「絶滅寸前。在来種の蕎麦」

野菜が品種改良されているように蕎麦も改良されているという。日本の蕎麦は、昭和20年ぐらいを境に、「在来種」から「改良品種」へと変わっていったらしい。そうした改良の理由は、(味ではなく)栽培のしやすさや収穫量のため。それ以前は、日本各地に、その土地ごとに育てられてきた「在来種」があったという。伝統食文化研究家・片山虎之助氏の記事である。

蕎麦なんてものは、中央アジアの方から伝来したものだろう、と漠然と思っていた私は、そもそも日本の蕎麦にそんな数十も種類がある(またはあった)とは思っていなかった。でも、現存の「在来種」と呼ばれる蕎麦の品種が、この特集で紹介されているだけで、18種類もある。

(改良品種に比べ)栽培しにくく、収穫量も少ない「在来種」を丁寧に育て、そしてその実をきちんと製粉し、達人が打った蕎麦は「驚愕の味」とこの特集では謳っている。興味を持たれた方は、「自遊人」9月号を読んでくださーい。まだ書店にあるかな〜。

http://www.jiyujin.co.jp/magazine/jiyujin1009.php

いろいろな理屈はある。そしてそうした理屈を知っておくことは、後々融通も利くから大事だと思う。でも、何しろ食べてみなきゃ。「在来種」とやらを。・・・・ということで、この特集で紹介している「在来種」の蕎麦が食べられるお店のひとつに、早速行ってみた。場所は青梅市(東京都)、「榎戸」というお店だ。

まず最初に断りごとから。この特集で、「榎戸」は、「奈川在来」という在来種の蕎麦を使っているということで紹介されている。でも、「榎戸」の品書きを見ると、「そのときそのときのいい蕎麦を選んで使っている」というような意味のことが書いてある。だから、この日、私が食した蕎麦は本当に在来種の蕎麦かどうかは確認していない。その点、悪しからず。確実なのは、注文のときにでも、「この蕎麦は奈川在来なのですか?」などと質問することだろうが、初めて入った店で、その質問は甚だ図々しい気がした。

さて、蕎麦は二八と十割があったので、各1枚ずつ注文。まずは二八(下の写真)。カメラが古い携帯なので写りが悪い。ゴメンナサイ。


ん〜、旨い。やや太めで、しっかり目のコシ。鼻の奥で感じる香りと、舌の上に広がる甘み・旨みが「えっ」と意外なくらいに感じる。それは柔らかいながらも迫力がある。例えば芋焼酎のお湯割りで感じるような甘み・旨みにも似ている。が、何と言うか迫力が違う。特にその後味。何か「強いもの」を感じる。それがたまらない。この特集で片山氏が「驚愕」と称しているのはおそらくこのへんだ。

昔、蕎麦屋さんに貼ってあったポスターで「蕎麦は野菜です」というのがあった。例えば蕎麦は、いわゆる「五穀」には入らない。植物学的だったか、蕎麦は穀物でなく野菜の仲間らしいのだが、それを改めて思い起こす。例えば、米も甘く旨いが、その甘さ・旨みとは違う。

蕎麦のことばかりで、つゆのことを書いてない。この蕎麦自体の「強さ」がそのまま全体の強い個性となっていて、つゆに意識があまりいかなかった。だから、つゆをつけずに蕎麦をそのまま口に入れたときにドーンと広がった甘さの印象の方がつゆの印象よりずっと大きい。

次、十割が来る。二八の最後のひと箸を集めているところだった。このジャストのタイミングが結構嬉しい。箸を運ぶのに、リズム感・ノリが出てくる。


相変わらず写りの悪い写真だが、今度は明らかに二八を上回る甘みと旨み。それがちょうど2割増しぐらいに感じなくもない十割の一口目。そして、箸が進むほどに、その味が舌に根付いていくようだった。

店を後にした帰りの車の中で水もずいぶん飲んだし、その後コーヒーも飲んだ。が、食後2〜3時間経っても、その蕎麦の味の余韻が舌の上で残っているように感じる。つまりは、2〜3時間経ってもその蕎麦がまだ口の中にあるみたいで、不思議な感覚だった。西洋音楽の通奏低音、またはインド古典音楽のタンプーラの響きのように、コンサートが終わって2〜3時間経っても、リアルに自分の感覚に残っている。

8月というのは蕎麦が一番古い時期なハズだ。新蕎麦になったら、どうなっちゃうんだろう・・・・なんて思いもした。

「在来種の蕎麦」。一軒の蕎麦屋さんに行っただけだけど、何かが決定的に違う気がする。今までも、「旨い」と思った蕎麦はある。それは「在来種の蕎麦」だったのか、そうでなかったのか? それは「改良品種の蕎麦」とどのぐらい違うのか、または違わないのか? 時間と空間を超えての比較は難しい。そして当然のことながら、蕎麦(切り)の違いは品種だけではなく、製粉方法や打ち方、その他のディテールでも違うだろう。

私は蕎麦が好物だが、研究家ではないから、努力していろいろな蕎麦を食べてる訳じゃあない。でも、こうして機会あるたびに記憶に残る蕎麦がある。それは人との出会いのよう。この「榎戸」の蕎麦は、私の忘れられない人になった。