2009年12月22日火曜日

お米の体験学習


今年の秋、家族でカミさんの実家を訪れた。そこは稲作もしている専業農家。私たちが食べるお米も送ってもらっている。今回はタイミングよく稲刈りの直前に行ったので、「真似ごとでいいので、是非稲刈りをさせて欲しい」とお願いした。

私たちは毎日その田んぼで出来たお米を食べている。その米が植物としてどんなものなのか、そしてどんなふうに食卓に並ぶまでになるのか、子供たちは知らないので、まずはちょっとでも稲刈りをさせたいと思った。また私自身、東京生まれの東京育ち。子供の頃、こういう経験がなかったせいか、「これはチャンス!」と迷うことがなかった。「子供たちに体験学習をさせよう」という、親父のちょっとしたプランだった。

コンバインが最初に入る田んぼの部分は、手で刈るとのことだったので、そこで3合分ぐらいの稲刈りをさせてもらい、東京の自宅へ送った。実家では、収穫が終わったら、町の協同組合のようなところへ納めて乾燥機で乾燥させる。自宅では、軒下で2ヶ月ほど、稲木にかけるようにかけておいた。

・・・・と、そこまではよかったが、「この後どーやって脱穀する?」

無知な私は、「脱穀(だっこく)」とは籾の殻をとって玄米にすることだと思っていたが、調べてみると、それは「籾摺り(もみすり)」で、「脱穀」とは、「籾摺り」の前に稲から籾を離すことだった。どうやら、一番の問題は、「籾摺り」のようだ。

稲を干しながら、ネットで「一般家庭で出来る籾摺りの方法は?」を調べてみた。東京・銀座の田んぼで収穫された稲の脱穀・籾摺りのイベントでは、すり鉢に入れた籾を野球のボール(イボイボ表面の軟球)でスリスリしていた。それをみた私は、「そんな(時間のかかりそうな)方法しかねぇのかなぁ〜」と正直不満だった。これだったら、「厚手のポリ袋に籾を入れて、ビンでたたいた方がいいんじゃないのかな」とも思った。


さて、十分に干されたところでまずは脱穀をやってみた。子供と遊びながらでおよそ3合分、1時間で出来た。ただ単純に手でしごいただけだ。(冒頭の写真はそのときのもの) 次はいよいよ「籾摺り」。「(機械のなかった)昔は、こんなふうにやってたものさ」みたいたな答えを期待しながら、カミさんの実家はもちろん、農家に育った私の親にもきいてみたが、全員、機械の方法以外知らないのだった。もう50〜60年も前から機械で籾摺りされていたということか。

「たぶん一升瓶に入れて棒でつついてみたら出来るんじゃない」。「それって精米の方法で、玄米をつつくんじゃないの?」と聞き返すと、「そうかもねぇ〜」と何とも頼りない反応。しかし他に思いつかず、やってみた。・・・・3合やるにはたぶん1日中つついてないと出来ない感じ。この方法は諦めて、次に以前思いついてた厚手のポリ袋に入れて一升瓶でたたく方法。・・・・棒でつつくのと五十歩百歩またはそれ以下か・・・・。

何しろ、籾殻は、思ったより玄米とくっついている。ポロッととれるイメージだったが、そんなことはなかった。機械を使う以前の「籾摺り」を調べてみる。・・・・木製の臼で挽かれていた。

そりゃ無理だ、情けない哉、現代人(五七五調)

失意の中、「すり鉢に軟球でスリスリ」をやってみた。「ありゃ〜、よく取れる!」それは他の方法に比べ、ブッチギリで素晴らしかった。もーこれしかない。ある程度時間はかかるけど、一升瓶や厚手のポリ袋に比べたら、雲泥の差だ。この方法を知った当初は確かに不満に感じたが、実際これは、とてもすばらしい方法だということを身をもって知った。

ただ、まだ3合全部籾摺り出来ていない。今年中にはやらないと、自分たちで刈ったせっかくの「新米」が「古米」になっちゃうー・・・・と焦っているのは私だけ。

この体験学習は、実は私のためだった、ということに最近気がついた。

2009年12月14日月曜日

塩ラーメンの旨味


写真は、東京駅八重洲南口の地下1階にある「ラーメン・ストリート」の中のラーメン屋さん、「ひるがお」の「塩らーめん(ひるがお盛り)」。1週間ほど前に食べに行った。長年「カンホアの塩」を使い続けてくれている。

このお店は元は新宿御苑にあったが、東京駅に引っ越して来た。新宿御苑の頃と味はやや変わっていた。新宿御苑の頃は、もっとスープの味に旨味の主張が強かったと思う。それが少し穏やかになったような気がした。

一般論としてだが、醤油や味噌といった調味料にはそれら自身にも旨味があるため、塩ラーメンになると、ラーメン屋さんはそれらにない旨味を補おうとして、旨味を強くする傾向があるんじゃないだろうか、と常々感じている。旨味が強いと、一口目からズッシリとその旨味を感じ始めるから、食べ終わる頃は舌がその旨味一色になって、なかなかつらいときがある。それは化学調味料を使わない旨味であってもあり得る。

だから、私にとって、一口目にスープの旨味を穏やかに感じることは、安心感に繋がっている。でも、この塩らーめんの旨味は、ただ「穏やか」になっただけではない。スープの中にいろいろな旨味を感じたが、中でも鰹の旨味がとても「抑えが効いた」大人なものだったことが印象深い。

私は15年か20年ぐらい前に、NHKの「きょうの料理」という番組で和食の出汁の取り方を、2人の板前さんが(もちろん別々の日に)教えてくれたのを観たことがある。ひとりは、道場六三郎さん。もうひとりは、野崎洋光さん。このおふた方の出汁の取り方は全く対照的だった。

道場さんは、昆布出汁を取った後、鰹節・鯖節を使ったが、それら魚を入れた後はグラグラ煮立たせて、魚の味をシッカリ取っていた。一方、野崎さんは、昆布に鰹節だけだったが、鰹節を入れる前に火を止めて冷水を足す。そして鰹節を入れた後も火にはかけず、再び冷水を足していた。野崎さんはその冷水の理由を「対流を抑える」と言っていた。私はどっちも自分でやってみた。想像つくとは思うが、道場さん流は、野趣あふれる旨味。鯖節のクセもしっかり「おいしさ」になる。野崎さん流は、フワーっとした浮遊感さえ感じる柔らかい旨味だ。どっちが「おいしい」の議論は意味がない。合わせる料理にもよるし、個人差もある。

ただ、ひるがおの塩らーめんは、野崎さん流の方だった。野崎さんは「対流を抑える」と言っていたが、私はそれは温度の違いでもあるような気がしている。今回ひるがおには11時の開店と同時に入った。つまり、朝一番のスープだった。寸胴に仕込まれたスープは、時間と共に保温され続け、夕方頃には多少味が変化しているかも知れない。

今や様々な食材が手に入り、いろいろな旨味を作り出すことが出来る。でも、ここでいう旨味は、あくまで味の部品であり、「おいしさ」とは別だ。いろんな味の部品で組み立てられた味が、「おいしい」かどうか? それが問題なのだ。例えば、先に「温度の違い」と簡単に書いたが、温度が低ければ当然時間はよりかかる。そうした細かいことの積み重ねで全体が組み立て上がる。

スープの旨味の穏やかさは、その分、麺の味、各トッピングの味、ひとつひとつの味がより印象に残るようになったとも言える。麺の「小麦を食べてる」実感をともなった味、青さのりの豊かな香りと微妙な味わい、トッピングの塩卵にもかすかに「カンホアの塩」の味がした。どれもきっとスープの穏やかさが背景ゆえに感じたもので、無理がない。「こういいうのでいいんだよな」と感じさせてくれる。そんな素直な「おいしさ」の塩らーめんだった。

2009年12月11日金曜日

猫が来る


この間、ある金曜日の夜、いつものように私たち家族の夕食が終わって、少しくつろいでいると、月見台(張り出し)への引き戸の外側から猫のような鳴き声がした。それは何かを求めているような急を要した声だったので、同時に気がついた幼い娘と一緒に、私たちは引き戸の上半分の透明なガラスから外を見た。紛れもない、猫だ。三毛猫だ。この辺りには、いわゆる「周り猫」と呼ばれる猫が2〜3匹いるが、この三毛猫は見たことがない。見上げてこちらを見ながら鳴いている。泣いているとさえ感じてしまった私は、直感的に「マズイなー」と思いつつ、つい引き戸を開けた。すると、トコトコ部屋に入って来て、足にまとわりつく。我が家は借家で、動物は飼ってはいけないことになっている。また大家さんちは、簡単な塀を隔てた隣なので、音が筒抜け。猫がいるだけでもすぐにバレる。

こんな人慣れした猫が、こんな見ず知らずの人の家に、それもこんな時間に来るなんて。「きっと、何か事情があるに違いない」と思ったが、同時に「ウチに来てもねぇ〜」と、とても複雑な心境。子供たちは突然の『愛くるしい』とも言える訪問者に大騒ぎ。フワフワの毛を撫でては、もう歓喜極まっている。こんなとき、オヤジはいかなる行動を取るべきか。短い時間にいろんなシナリオが頭の中を駆けめぐった。

とりあえず、いつものように家族は順番に風呂に入る。私は最後なので、しばしの間、部屋でサシで一緒に過ごした。猫はまるで自分の家のように、座布団の上でゴロゴロ。明らかにリラックスしている。それを見て、何となく「コイツにはかなわない」という感覚が私の心にグッサリと刺さった。風呂から上がっても興奮状態の子供たちは、とても寝付けそうにない。それでも、「もう寝よう」と電気を消した。「猫さんはどうするの?」と当然の質問。「この猫さんは、迷子になってるかも知れないから、きょう外に出してあげよう」と、大した抵抗なく私に抱きかかえられた猫は入ってきた引き戸の外に出た。しばらく引き戸の向こうで鳴いてはいたが、無視するしかない。だんだん鳴き声の間隔が長くなり、やがて声が聞こえなくなった後、私も布団に入った。

翌朝、引き戸の外を見るが、いない。「またどこかへ行ったかな」と思ったのもつかの間、玄関わきのポストに新聞を取りに行くと、隣の家の玄関の前に座っている。ポストを開ける音に気づいた猫は、私に向かって走ってくる。「あや〜」。幸か不幸かこの日は土曜日で私は一日中、家で仕事の予定だった。カミさんは外で仕事、子供を保育園に預けた後、私は一日一緒に過ごすこととなった。しかし、このままではいけない。

とりあえず2軒隣の友人に相談。その家はかつて猫を飼っていて、私たちより猫に詳しい。しかし、その家も同じタナゴ(共通の大家さんの借家)だから、「ウチも無理だけど、近所の○○さんちだったら、猫飼ってもいいな〜ってなこと言ってたよ」とすばらしい情報。早速、○○さんちに電話をかけると、悪くない反応。簡単に言えば、「猫による」のだろう。でも、この猫が受け入れられる自信はあったので、まずは我が家に来てもらった。案の定、OKが出て、翌日の日曜日、連れて行くことになった。ホッと一息。と同時に一抹の寂しさはあったけど・・・。

しかし、この猫が単純に迷子になってる可能性がないわけではない。そこで、「迷い猫、預かってます。お心当たりの方はコチラまで(携帯番号)」という写真付きの紙を、近所の電信柱に貼りまくった。○○さんには「もし、飼い主が現れたら帰ってもらうから」は条件だ。そして夕方保育園のお迎え、間もなくカミさんも帰宅。ほとんど仕事にならなかった長い一日を説明した後、「(翌日の)お昼ぐらいまでこの猫と一緒に過ごそう。また会いたくなったら○○さんちへ行けばいい」と話した。半分自分に言い聞かせるように。冒頭の写真は、その日曜日に撮ったものである。

1ヶ月ほど連絡を待ったが、梨のツブテ。張り紙を全て撤去し、その三毛猫は○○さんちに住むことになった。どんな事情があったかは分からないが、猫も大変だ。

猫と言えば、もう10年以上前のことだが、我が家の縁側の下から、か細い子猫の声がしたので覗いてみると、母猫が子猫2匹を抱えて授乳していた。明らかに子猫たちは弱ってた。そぼ降る雨の中だった。私と目が合った母も弱っていたが懸命に私を威嚇する。「雨宿りぐらい全然OKよ」と言い残して1〜2日後、「どうしたかな」と見てみたら、子猫1匹だけが死体で残っていた。つい数十年前までの日本では、生まれてすぐに命を落とす人間の赤ちゃんが少なからずいたという。どんな事情があったかは分からないが、命がけで猫も大変だ。裏庭の土の中に遺体を埋め、手を合わしながら、そう思った。